ルース・ベイダー・ギンズバーグ ~女性の社会進出の先駆者~

ビジネスライターの植竹希(うえたけのぞみ)です。
今日の歴史上の人物はルース・ベイダー・ギンズバーグです。

エールは女性活躍を応援するコミュニティですが、「女性活躍」というキーワードから、忘れてはならない歴史上の人物がいます。昨年に87歳で亡くなったルース・ベイダー・ギンズバーグです。アメリカのリベラル派のファンは本当に数多くいて、昨年秋にはたくさんのセレブからも哀悼の言葉が送られました。

「ルース・ベイダー・ギンズバーグ」(1933年-2020年)

ニューヨークのブルックリン生まれのユダヤ人移民のルースは、決して恵まれない出自でしたが、母の”淑女であれ”、”自立した人間であれ”の言葉を胸に学業にまい進します。コーネル大学の学生だった頃、同窓のマーティー・ギンズバーグ氏と出会い結婚。その後、社会保障事務所で働いていた時に妊娠します。ですが妊娠を理由に降格の憂き目に。しかしながら1950年代当時のアメリカでは、妊婦差別は当然のことでした。

エピソード1 法の世界は閉じられた「男社会」

1956年にはハーバード大法学院に入学します。同級生500人余りのうち、女性はルースを含め9人のみの世界。当時病に倒れた夫の看病と、乳児をかかえながら、奮闘するものの、差別もあり、学位を取ることがかないませんでした。次の転入先、コロンビア大法学院は主席で卒業しましたが、就職もままなりません。性別などを理由にどの弁護士事務所からも不採用になってしまうのです。

エピソード2 理不尽な体験をバネに弁護士として

その後も格差や不平等と闘いながらも、ルースは弁護士として数々の性差別事件を手掛け、男女平等をめぐる歴史的な6件の事件に関わり、最高裁で争い、うち5件は勝訴していきます。やがて、弁護士としての手腕が知られるようになり、1993年にクリントン大統領から指名を受け、アメリカ史上で女性として2人目の最高裁判事となりました。

エピソード3 互いに認めあえるパートナーにも恵まれ

判事としてのさまざまな功績も遺したルース。頭文字から「R(ルース)B(ベイダー)G(ギンズバーク)」の愛称で親しまれ、若い世代からも絶大な人気がありました。それは、こんなお茶目なエピソードも理由の一つかもしれません。
「僕は妻には法律的なアドバイスはしない。その代わり、彼女は僕に料理のアドバイスをしないんです」と夫のマーティー。なぜならルースは料理が絶望的に苦手。料理は彼が一手に担っていたと言います。とはいえ、彼女の仕事ぶりについて誰よりも認めていた夫マーティーは、最高裁判事のキャリアにまい進するためならと、自分の築き上げたキャリアもいさぎよく捨て、サポートに回りました。

真に対等で互いを尊重し合う関係が、いかに大切か。それを最も理解し、一番身近な夫マーティーを違う側面やフェーズで全力でサポートしていたのもルースでした。彼女の功績を調べていくうちに、他者を認めて、フラットな関係性を重んじ、実践した。そこが彼女の一番の美点、そして功績かもしれません。

「フェミニズムをシンプルに言い表せば、マーロ・トーマスの歌『Free to be…You and Me(あなたも私も、何にでもなれる)』だと思います。女の子も自由に医者や弁護士になれる。なりたいものになれるのです(一部抜粋)」

(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)

投稿者プロフィール

植竹希
植竹希株式会社メディカルデザイン代表取締役/メディア戦略プランナー・ディレクター
メディア戦略プランナー。伝えたいことを伝えたい相手に届けるためのPR・プロモーションのプラン・ライティング
(https://design-m.jp/)
パラレルキャリア専門エール通信

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