北政所 ~秀吉を出世させたイメージ戦略~

ビジネスライターの植竹希(うえたけのぞみ)です。
年の瀬の今日は、私が一番気になっている歴史上の人物を紹介します。

戦国時代、農民という出自から駆け上り、天下統一を果たした豊臣秀吉。その正妻・高台院(こうだいいん)。並々ならぬ才能を持つ女性であったことはおそらく間違いありません。秀吉が関白になった後は北政所(きたのまんどころ)として朝廷との交渉役、つまり外交官のような役目を担っていたことは史実にも残っています。

この頃の武将は、朝廷のお墨付きの元、地位が成立していました。そのため、朝廷との良好な関係性を保つのは最重要事項。働きが朝廷にも認められ、女性の最高位である従一位を与えられた女性です。

秀吉の死後は、出家。高台院と名乗り、徳川家康の助けで、京都に高台寺 圓徳院を建立。今日は高台院のエピソードを一部ご紹介します。

「高台院(こうだいいん)」(生年不祥-1624年)

ねね(またはおね)、後の高台院(以下、高台院)は、杉原定利・朝日殿の次女として尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)に生まれます。永禄4年(1561年)、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)と結婚。高台院の実母・朝日に身分の差で反対されるも、高台院の兄が、自らも秀吉に養子縁組すると諭し、無事婚姻を結びます。当時としては珍しい恋愛結婚で、夫の身分の低さと「周囲に祝福されていなかった」こともあり、藁と薄縁を敷いて行われた質素な結婚式でした。

エピソード1 夫の浮気も出世を阻まれないための力に変える

秀吉が破竹の働きにより、初めて長浜城の城主になった頃、秀吉の浮気に悩み、織田信長に直訴した高台院。織田信長からの励ましの書状をもらいます。以下要約です。

「…この前久しぶりに会ったがあなたはいっそう美しさが増している。藤吉郎(=秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あの『ハゲネズミ(=秀吉)』があなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい…」

この書状は、昭和初期までは信長の直筆と思われてきましたが、部下による代筆。とは言え、部下である秀吉の妻にあてたものにしては非常に丁寧な文章であり、公式文書を意味する「天下布武」の朱印も押されているものです。信長が、秀吉の力量を買っており、その源は「妻である高台院あってこそ」と思っていることがわかります。また、諸説ありますがこういう見方をしている歴史関係者もいます。「女好きでどうしようもない」「妻の尻に敷かれている男」というイメージ戦略で、信長以下、関係者皆を油断させる―。

草履とりから一国一城の主まで登りつめた秀吉に対し、上司である信長はもちろん、周りの人の疑り・やっかみを防ぐ必要があると考えたのではないかという説です。

エピソード2 淀殿との対立関係はなく、むしろ良好だった…

高台院には子どもがいませんでした。そのため、一時秀吉にも辛く当たられ、秀吉の側室・淀殿とは対立関係にあったと言われていましたが、近年は協調・連携関係にあったという説が有力です。特に秀吉の死後は高台院と淀殿の双方から積極的に連携がなされ、高台院は「亡き夫の仏事」に専念、淀殿は「秀頼の後見人」という役割分担ができていました。

たとえば、慶長13年(1608年)、天然痘にかかった豊臣秀頼の治療を行った曲直瀬道三に容態について
問い合わせをしている書状が残っており、淀殿の子息秀頼の病気快復を心底から望んでいた内容となっています。

また、あの有名な関ヶ原の戦いにおいても、淀殿との対立関係から「徳川家康率いる東軍のために動いた」とするのが通説で、実際、甥の小早川秀秋が戦闘中に西軍を裏切り東軍に付いているところは知られるところ。

しかし、近年は淀殿と連携して大津城の戦いでの講和交渉や戦後処理に動いたことが確認されています。また、逆に石田三成らと親しく、関ヶ原の合戦時にも西軍寄りの姿勢を取っていた可能性を指摘する歴史学者の研究も発表されているのです。

投稿者プロフィール

植竹希
植竹希株式会社メディカルデザイン代表取締役/メディア戦略プランナー・ディレクター
メディア戦略プランナー。伝えたいことを伝えたい相手に届けるためのPR・プロモーションのプラン・ライティング
(https://design-m.jp/)
パラレルキャリア専門エール通信

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