広岡浅子 ~快活さと知的さを兼ね備えた「明治時代の女傑」~

ビジネス部⾨ 歴史上の人物ライターの植竹希(うえたけのぞみ)です。今日の歴史上の人物は広岡浅子。NHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなった人物です。

炭鉱ビジネスに乗り出し、銀行・生命保険会社を設立するなど、優れた女性経営者として知られています。また日本初の女子大学の設立にも携わりました。小さなことにはこだわらない快活さと、知的さを兼ね備えた「明治時代の女傑」。そんな広岡浅子の軌跡をたどります。

「広岡浅子(ひろおかあさこ)」(1849年-1919年)

エピソード1

京都の名門商家である三井家六代当主・三井高益の四女として生誕。旧名は照。生け花・裁縫・琴といった女子の手習いより、難解な書物に強い興味を持つ少女でした。とはいえ女性に教育は不要の時代であり、家族から読書を堅く禁じられます。

17歳になると大阪の豪商加島屋の次男・広岡信五郎と結婚。商売に興味がなく、使用人たちに任せきりの夫。いわゆる「商家の風習」に納得がいかない浅子は、簿記・算術を独学で習得。次第に商売が傾いた加島屋の救済にも関わり、才能を発揮していきます。

エピソード2

1884年(明治17年)には、九州・筑豊地方の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鉄所二瀬炭鉱)を買収し、炭鉱開発に着手します。さすがの浅子も最初は気の荒い鉱夫たちを恐れましたが、洋服の中に護身用の拳銃二丁を携え、彼らと寝起きを共にして叱咤激励し、時にはまっ暗な坑道にも入って陣頭指揮もとりました。

最初は相手にしなかった鉱夫たちも、やがて浅子のことを「すごい女性だ」と感心するように。そこで彼女はいきなり労働条件や待遇を改善します。この大胆な投資と行動力には、皆が感服。姐御と慕われるようになりました。潤野炭鉱は1897年から産出量が増加し優良事業に。

エピソード3

夫の弟の後見人として、保険事業にも参画。現在の大同生命の礎をつくります。その後、事業から離れた浅子は、少女時代学業を許されなかった辛い思いから、「女性のための高等教育」を実現するため女子大学の創設に奔走。自身が寄付を行うだけでなく、伊藤博文・大隈重信・渋沢栄一など政財界の有力者に協力を仰ぎ、設立の支援を行いました。

晩年は、社会事業、奉仕活動に専念。特に売春問題に取り組み、遊郭で苦しむ女性たちの救出に力を入れました。「体を売る女をなぜ責めるのか。彼女たちはほかに手段がないからだ。ではなぜそうなのか?それは男たちが女子教育の機会を奪ったからだ。」というのが、生涯の信念でした。

浅子は「九転十起生(きゅうてんじゅっき)」というペンネームで執筆活動も盛んに行いました。ペンネームが示す通り、何事にも決して諦めない人生だったのでしょう。今も残る数々の事業と実績がその証拠かもしれません。

投稿者プロフィール

植竹希
植竹希株式会社メディカルデザイン代表取締役/メディア戦略プランナー・ディレクター
メディア戦略プランナー。伝えたいことを伝えたい相手に届けるためのPR・プロモーションのプラン・ライティング
(https://design-m.jp/)
パラレルキャリア専門エール通信

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