街には匂いがある。
その土地を訪れたとき、目よりも先に鼻が覚えることがあるかなと思います。
上海の場合は、甘く味付けをした焼きまんじゅうの匂い。
立ちのぼるその香りが、まだ言葉にならない旅の実感として、身体に染みこんでくる…。
上海に今年いちばんの嵐がやってきた日、
私はM50という現代アートギャラリーがひしめく街で「墨流し」をしました。
日本では平安時代の貴族たちが嗜んだ遊びです。
水面に墨を垂らし、その上から油を垂らす。
ゆらりと墨が広がったところに紙を落として写し取る。
ただそれだけの行為なのに、そこには偶然と必然が混ざり合った、
一種の「自然の表現」が生まれます。黒と白の芸術!
渦を巻きながら流れていく墨の動きは、風に揺れる香に似てる。
どちらも人の手を離れたあと、自然の法則の中でしか動かないもので、
そしてそれを「美しい」と感じる心だけが、そこに意味を与えるような。
やってみたところ、書は香りに近いものを感じました。
書道の一文字一文字には、墨の濃淡、筆圧、呼吸のような「気」がこもっているんだと思う。
香りが瞬間を切り取るように、書もまたそのときの精神を紙に写すものなんだなー。
香道では、香木を焚くとき、その「時の気」に耳を澄ませる。
この香木はどういう風に香るのか。今日はどういう気候なのか。
そして私は、どんなこころの状態にあるのか。
書も香も、自己と自然の接点にある。
豫園で香をたいていただき、香りを聞いてみた。
かすかに甘く、深く、土のような、海のような匂いがした。
上海という都市の喧騒とは正反対の、静けさを孕んだ香りだった。
香炉から立ちのぼる香りの向こうに、豫園の奇岩や書斎の静けさがよみがえるのではないか。
墨流しの渦、そしてあのときの自分の呼吸――
香りは時間と空間を超えて記憶をよみがえらせる。

香道とは、香りを味わう技法であると同時に、
香りを通じて「私とはなにか」を問い直す術でもある。
街は香る。
アートもまた、香る。
そして、私もまた香りのなかで変わっていく。
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