マリ・キュリーに学ぶ女性の生き方

ビジネス部⾨ 歴史上の人物 ライターの植竹希(うえたけのぞみ)です。
今日の歴史上の人物はマリ・キュリー。

パラレルキャリア

1903年にノーベル物理学賞、1911年にノーベル化学賞をダブル受賞した唯一無二の人物。放射線研究のパイオニアで、現在のがん治療につながる研究を行った人物として知られています。4年前に行われたイギリスのある歴史専門誌のセレクトした「世界を変えた女性100人」のSNS投票でも第1位に。子ども時代に偉人の伝記の一つとして、読んだという方もいるでしょう。

大人になった今、この「一人の女性の生き方」を振り返ってみることで、新たな発見や気づきを皆さまとともに共有したいと思います。

「マリ・キュリー」(1867年-1934年)

ポーランドに生まれたマリ。旧名はマリヤ・スクロドフスカ。ロシア帝国の支配化にあったポーランド・ワルシャワでとても貧しい生活を送っていました。教育も制限され、女性が大学に行くことは許されていなかった時代です。姉とパリ留学を夢見たマリは、まずは住み込みの家庭教師をしながら姉の大学の学費を仕送り。そのあと自らパリ大学理学部へ。姉の家に居候しながら優秀な成績をおさめました。

やがて、夫となる物理学者のピエール・キュリーと出会い結婚。当時物理学界で注目されていたウランの研究に没頭します。やがて放射線元素と呼ばれる「ボロニウム」「ラジウム」を発見するのです。これは、現代では医療分野におけるラジウム放射線による癌の治療などに応用されています。当時「世紀の大発見」として非常に注目されました。1903年にはこの業績により、アンリ・ベクレル(別の研究者)と共に1度目のノーベル賞となるノーベル物理学賞を受賞します。

ところが、その後マリに悲劇が…。1906年、最愛の夫ピエールが事故死。失意の底に突き落とされたマリですが、研究を続け、亡きピエールに変わってパリ大学の教授に就任します。パリ大学で女性が教授になったのは彼女が初であり、1911年には、2度目のノーベル賞であるノーベル化学賞の受賞を果たします。(ちなみに、マリの子供であるイレーヌ・キュリーも後年ノーベル賞を受賞し、親子二代でノーベル賞獲得。これも史上初の偉業でした)

マリは研究者としてもいくつもの「史上初」を成し遂げます。それは当時の「女性は学問に向かない」という固定概念を払拭するのに十分でした。生前すでに100を超える称号を得て、1934年、66歳の若さで亡くなりました。当時まだ危険性が認識されていなかった放射能を、実験の時に浴び続けていたことが死因とされています。

マリは特許で巨万の富を得ることもできましたが、得ませんでした。生涯を通して自分の使命だけに没頭したことで、誰もが、医療としてこの彼女の研究成果を利用できている。このことこそが、一番の功績ではないでしょうか。

この発明は、病気の治療に使えるものですよ。病人の足元に付け込むなんて、私にはできません

マリ・キュリー

投稿者プロフィール

植竹希
植竹希株式会社メディカルデザイン代表取締役/メディア戦略プランナー・ディレクター
メディア戦略プランナー。伝えたいことを伝えたい相手に届けるためのPR・プロモーションのプラン・ライティング
(https://design-m.jp/)
パラレルキャリア専門エール通信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です