平塚らいてう

ビジネス部⾨ 歴史上の人物ライターの植竹希(うえたけのぞみ)です。
今日の歴史上の人物は平塚らいてう。明治~大正~昭和にかけて活躍した女性運動家です。

「平塚らいてう」(1886-1971年)

「元始、女性は太陽であった」このフレーズは、皆さんも学生時代、歴史の授業で聞いたことがあるのではないでしょうか?平塚らいてうは、女性は男性に属するもの・一歩下がった「良妻賢母」が当たり前だった時代に、女性の権利を主張した人物として知られています。

他にも「まさにイノベーターだ!」と唸るようなエピソードがたくさん!100年前の人物ではありますが、不安定な今の世こそ、平塚らいてうのような人物が求められるのでは――。と思わせる、勇気がわくエピソードをいくつか紹介します。

[エピソード1]女の感性の覚醒!文芸雑誌「青鞜」刊行

らいてうは「個の確立」「女性の解放」をテーマに、女性のみで文芸雑誌「青鞜」を作り上げました。この頃の日本の女性には、参政権さえもなく、自由恋愛もご法度。家長制度が当たり前の世の中で、「青鞜」に対する反応は男性を中心に、概ね冷ややかでした。さらに先進すぎた彼女たちの行動もバッシングの対象に。ですが次第に「青鞜」に対する女性達の反響は大きくなり、熱烈な声援が連日届いたと言います。とはいえ、古い慣習の束縛も絶えず発生。何度か発禁処分を繰り返し、約4年後に刊行は完了してしまいました。

[エピソード2]日本初の事実婚実践者

青鞜刊行から約3年後に、5歳年下の洋画家・奥村博史と結婚。彼らは結婚制度や家長制度には批判的でしたので、婚姻届を提出せず、事実婚を選択。世間の猛烈な批判を浴びましたが、ものともせず2人は新たな結婚の形を「共同生活」と呼び、仲よく暮らし、1男1女をもうけました。なお当時の戸籍上の問題から数々のデメリットも多く、子どもたちのため、後に2人は後に婚姻届を提出しています。

エピソード3]今に繋がる協会・組合を次々と発足

「婦人参政権」「母性の保護」「女性の社会的自由の確立」が必要と考えたらいてうは、市川房枝・奥むめお達と1919年に新婦人協会を結成。また世界恐慌が始まり、日本も経済的に困窮する人が続出した1929年、らいてうは消費者の利益を守り、商品の品質や価格を消費者の負担にならないように消費組合「我等の家」を設立。さらに戦後は「世界の国家全てを統合した世界」を目指す運動に参加し。世界の平和のために尽力していきます。

生きることは行動することである。ただ呼吸することではない

これはらいてうの自叙伝「元始、女性は太陽であった」に書いてある言葉です。青鞜、新婦人協会、戦後の様々な活動。それは世の中には受け入れ難く、困難を極めるもので、思いがけず空中分解してしまうものも多かったのですが、それでも平塚らいてうは、行動をやめませんでした。まさに「行動」こそが彼女の生き方なのではないでしょうか。

投稿者プロフィール

植竹希
植竹希株式会社メディカルデザイン代表取締役/メディア戦略プランナー・ディレクター
メディア戦略プランナー。伝えたいことを伝えたい相手に届けるためのPR・プロモーションのプラン・ライティング
(https://design-m.jp/)
パラレルキャリア専門エール通信

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